はじめに
今村夏子の短編小説『こちらあみ子』を読んだ。
あみこは、おそらく発達障害を抱えている女の子。
けれどこの小説は、障害を特別に描くわけでもなく、同情を誘うわけでもない。
ただ、あみ子のその「純粋さ」が、静かに、着実に、周りの人たちを壊していく。
その描写が、あまりにも生々しくて、読む手が止まらなかった。
あらすじ(簡単に)
あみこは、風変りの女の子で空気が読めない。
言ってはいけないことを言い、やってはいけないことをしてしまう。
でもそれは悪意ではない。むしろ誰よりも真っすぐで、無垢で、嘘がつけないだけ。
しかし、その「無垢さ」が、周囲との距離を広げ、家族を、友達を傷つけていく…
だけどそれが傷つけているということすらわからない…
ただ真っ直ぐに生きているだけ。
読んだ感想
正直、読んでいてつらかった。
あみこは悪くない。でも、だからこそ残酷だった。
社会は、大人たちは、子どもたちさえも、
少しずつ「調整」して、なんとなく折り合いをつけて生きている。
そのルールを知らないあみこは、ただ「正しく」振る舞おうとする。ただまっすぐ生きている。
だけど、その正しさ・まっすぐさは、誰も求めていない。
求められていない「正しさ」は、ただの異物になり、拒絶される。
そんな世界のしくみを、あみこは知らない。
だから壊す。無自覚に、淡々と。
個人的な考察
あみ子は「障害者」だから悲劇だったのか?
多分違う。
社会に適応できない純粋な存在が、
「空気」と「建前」でできたこの世界の中でどうなるか──
そのリアルを、今村夏子は静かに、容赦なく描いている。
あみこは特別じゃない。
誰だって、ふとした瞬間に”あみこ”になる可能性を持っている。
それをこの小説は、冷たくも優しく突きつけてくる。
ふとした瞬間に”あみ子”になると言ったが、あえて「あみ子」になることも大事なんじゃないか。
「逸脱せよ」
この言葉とあみ子になるということはイコールなのかもしれない。
世界の異形な人たちは’普通の人’ではないように、どこかオリジナルなそして唯一無二な存在だ。そういう自分をあえて作り出すことに価値があると思っている。
まとめ
『こちらあみ子』は、
社会でうまくやることが「正解」だと信じて生きている自分たちに、
「本当にそれだけが正しいのか?」と問うてくる作品だった。
読むのに少し勇気がいる。
でも、読んだあと、世界の見え方が少し変わるかもしれない。
こちらあみ子は映画にもなっている。
近いうち観よう。そして…
「逸脱せよ」